アセクシュアルとポリアモリーは両立するのか?

アセクシュアルの定義は、恋愛や性愛を求めないこと。

ポリアモリーの定義は、複数の人と誠実な性愛関係を築くこと。

 

一見この2つのセクシュアリティは相反するように見える。
実際「アセクでポリアモリー」と告げると、「恋愛しないのに?」と聞かれることが多い。

けれど、実はこの2つはとても相性がいい。

今日はこのテーマについて考えていく。

ロマンティックとセクシュアル

アセクシュアルとポリアモリーの関係性について話を深める前に、

  • ロマンティック
  • セクシュアル

の2つの概念について考えてみなければならない。

 

ここでは「見えない性的指向 アセクシュアルのすべて」に従って次にように分類する。

ロマンティック

相手に恋愛感情を持ったり、持ちたいと思うこと

 

セクシュアル

相手に性的に惹かれること

 

重要なことは、「恋愛のパッケージの中に必ずしもロマンティックとセクシュアルが同時に存在しているわけではない」ということである。

アセクシュアルひとつとっても

  • アロマンティック・アセクシュアル
    相手に恋愛的にも性的にも惹かれない
  • ロマンティック・アセクシュアル
    相手に恋愛感情を持つが性的に惹かれない
  • アロマンティック・セクシュアル
    恋愛感情は持たないが性的に惹かれる

など様々だ。

 

ポリアモリーにはアセクシュアルのように細かい用語のカテゴライズはないが、やはりそれぞれのパートナーに対する感情は異なり、ロマンティック/セクシュアルの是非や濃淡が存在する。

ロマンティック(恋愛感情)とセクシュアル(性愛感情)は、決して一心同体の概念ではない。

結婚というパッケージング

こう考えていくと、現代の結婚制度についても疑問が生まれる。

通常認識されている結婚というのは、

  • ロマンティック
  • セクシュアル
  • 共同生活
  • 子育て

がひとくくりのパッケージである。

 

であればこそ、不倫や浮気やセックスレス、親権、虐待、モラハラなどのドメスティックな出来事がニュースや新聞でさまざま取り沙汰される。

そのすべてが、お国が提供する便利な「結婚パッケージ」にそぐわなかった罪で糾弾されるのだ。

 

結婚は人生のゴール。
死がふたりを分かつまで一緒にいなくてはいけない。
恋人がいる人は他の人とセックスしてはいけない。
友達と恋愛関係になってはいけない。
子育ては両親2人が行わなくてはいけない。
血がつながっていなければ家族じゃない。

こんな具合に。

 

でも、考えてみてほしい。

結婚という脆い枠組みだけを頼りに、生涯たった一人の人間に恋愛もセックスも子育ても介護もパートナーシップも、何もかもを負わせることには無理がないだろうか?

だからこそ、結婚制度の中ではこうして色々な不満や破綻がはちきれたように噴出しているのではないか?

 

世の中には多種多様なセクシュアリティが存在している。

アセクシュアルのようにセックスを必要としないことも、ポリアモリーのように複数のパートナーと関係性を築くことも、きっと間違ってなどいない。

それらはパッケージングされた1対1の関係性と同様に尊重されてしかるべきであると思うし、少なくとも選択する権利は誰にでもあるはずだ。

愛もセックスも外注する。ってどうなの?

アセクシュアル、そしてポリアモリーの在り方が提示するのは、ただの可能性である。

ロマンティックとセクシュアルは、分断可能なまったく別個の概念であること。

その両方を一人の人に負わせなくてもいいこと。

つまり、愛もセックスも「外注」が可能であるということ。

 

外注を取り入れれば、アセクシュアルやポリアモリーの当事者のみならず、セックスレスの悩み、子どもを育てたい思いのすれ違いなど、夫婦間だけでは解決不可能だった悩みにも希望が見える。

 

外注という言葉に、なんとなく嫌な感じを受ける人もあるかもしれない。

でもその「なんとなく嫌な感じ」が、結婚倫理とも呼ぶべきお国の強制的な空気感のみを根拠にしているのであれば、ちょっと立ち止まってみてほしい。

 

みんながそうしているからといって従う必要はみじんもない。

自分の頭で考え選択するという人間として当然の権利を、誰しもが手放すべきではないと僕は思うのだ。

私が私であるための選択はすべて正しい

そろそろ言いたいことをまとめよう。

ポリアモリーやアセクシュアル「だけが」正しいのではない。
ポリアモリーやアセクシュアル「も」正しいのだ。

同様に、ロマンティックやセクシュアルを外注するという選択も正しければ、外注しないという選択も正しい。

 

僕たちが生まれたのは他力によるものだが、なにも空気や倫理や当たり前なんかのために生きていくわけではないだろう。

きちんと自分の頭で考え、借り物ではない言葉で話し、「私が私であるために行う選択」を実行した先にしか、主観的に生きて主観的に死ぬ人生の納得感はあり得ない。

 

だから僕自身も、自分自身のセクシュアリティを言葉にする試み、誰かの「私が私であるために行う選択」を伝える試みを諦めないで続けていこうと思う。

これはちょっとまだ構想段階なのだけれど、「様々な関係性の在り方を伝える記事」を作っていきたいと考えている。

このブログの動向を見届けていただければ嬉しい。

ABOUTこの記事をかいた人

某ベンチャー企業で働くライター。リスロマンティック、アセクシュアルを自認。非血縁家族、曖昧なセクシュアリティに関心あり。あらゆる概念や思想を言語化したい。