私たちは無垢ではいられない

先日、こんな本を読んだ。

この本が提唱するのは、権威と支配への欲望をもとに他者を攻撃することで喜びを得る「マニピュレーター」という人たちの存在について。

モラハラ、毒親、デートDVの加害者、部下の昇進をことごく握りつぶす上司などはこの類に当てはまるかもしれない。

 

この本を読んで僕が感じたのは、そうした人種から身を守る術を僕たち全員が知っておく必要があるということ。
それゆえに無垢なままで生きることは美しい幻想であり、決して手に入れられない贅沢品であるということだ。

遺伝子に息づく攻撃性

攻撃的なパーソナリティを持つ人間というのは、悲しいかな存在する。
性善説や、人に優しくしなさいだとか、幸福な世界をいくら語れど人生は常に奪うか、奪われるかだ。

 

理由は2つある。

第一に、マニピュレーターは身近な社会のどこに潜んでいるか分からない。

第二に、遺伝子的に生来攻撃性を備えている人間という種に生まれ、社会的動物として生きていく以上、私たちは常に攻撃性を発揮しまたは他者から発揮される機会に常に晒されている。

 

知らないうちにマニピュレーターに奪われ、気づいたころには取り返しのつかない事態になっているというのはおそらく多くの人々が想像するよりもよくあることだ。

それどころか、自分自身が加害者になることだって十二分にあり得る。

 

攻撃性を備えた人々が生きる世界で無垢であること、つまり性善説だけを神様のように信仰し、自分や他者のなかに脈々と息づく攻撃性に見て見ぬふりをするというのはあまりに無責任な態度ではないだろうか。

無垢で無知なままでいては、自分の大切な人や、自分自身のことすら守ってやれない。

無垢を捨て誠実かつ打算的に

人間は裏切る。
人間は傷つける。

その攻撃性は、その人物が信頼に足るかどうかに関らず、パーソナリティとその時の状況の足し算によって引き出されてしまう。

どんなに優しい人であっても、自分や信念が危機に晒されれば手段を択ばず激しい攻撃を実行し得る。

 

だから人間というのが攻撃性を有した生き物だということは、知識として持っておかなければならない。
それに対して僕たちができることというのは、この人を裏切ると損だ、という刷り込みをアナログでせっせと地道に築いていくことでしかないのだ。

 

例えば、

  • 攻撃性に対する知識を持ち、自分や他者からそれが発せられたときに敏感に気づき正しく対処すること
  • 双方のプライベートの共有事項を増やしていくこと
  • 信頼されたい相手を積極的に助けること
  • 自分が貴重で有益な助けを与えることができるという事実を、言葉を介して意識づけしていくということ

これらはあまりに打算的で、無垢という言葉とは程遠いかもしれない。

 

でもどうだろう。

そういう心配りをして手間をかけるという面倒くさい作業を進んでやっているということ。
それをすること自体、その人に対する尊敬や尊重の意思表明として成り立ちはしないだろうか。

強い自己として生きる

マニピュレーターや基本的攻撃性に対する備えは、基本的不信の上に自己を守るためのバリアを何重にも張り巡らせることではない。
逆説的だけれど、守る手段を熟知し攻撃に備えることで相手と開放的に対話することが可能になるのである。

武術に長けた人の立ち振る舞いが極めてリラックスして見えることに似ているかもしれない。

 

アサーション、セルフエスティーム、健全な自己主張は、「人間のコミュニケーションという営みはそもそも不完全で不条理」という前提の上に成り立つものだ。

意識的な努力をすることでやっと、まともな自己評価や他者との関係性を築くことができる。
努力なしで分かり合えるなどという妄想は、ハナから捨てた方がいい。

そしてその態度というのは、無垢というよりも高度に成熟した自己尊重、ひいては他者尊重の態度なのである。

 

攻撃性から自分と大切な人を守る具体的な手法については、ぜひ本を読んでみてほしい。

他人を支配したがる人たち:身近にいる「マニピュレーター」の脅威

ABOUTこの記事をかいた人

某ベンチャー企業で働くライター。リスロマンティック、アセクシュアルを自認。非血縁家族、曖昧なセクシュアリティに関心あり。あらゆる概念や思想を言語化したい。