「関係性に名前がない」
というのは、ポリアモリー、あるいはアセクシュアル当事者の間でよく耳にする言葉だ。
ポリアモリーの場合は「友情と愛情の境目が分からない」という文脈で、アセクシュアルの場合は「その親愛は恋愛や性愛ではない」という文脈で語られることが多いように思う。
アセクシュアル当事者ですが「恋人じゃない特別な人たち」を呼ぶための言葉をずっと探している。
恋愛やパートナーシップとは呼べない。
でも間違いなく特別だしその人たちのことを尊敬しているので自慢したい。
しそのポジションに当てはまる人を随時募集したい。(ポリアモリー的)— 礼司 (@iosononelcielo) September 23, 2020
というわけで今回は、あくまで1ケースとしての僕の場合について話していこうと思う。
恋も愛もない、ある当事者のルール
僕の場合は、自認している性自認がアロマンティック・アセクシュアル、そしてリスロマンティック。(詳しくはアセクシュアルとは?のページを参照)
すなわち、僕の中には恋も愛もない。
関係性にそういう名前をつければ、それはそのままその人との繋がりの終了を意味する。
僕自身は愛することができず、そして相手からの恋愛の感情も欲しくない以上、その可能性が少しでも生まれれば断絶するほか術がない。
おそらくここは自分の過去の体験も含めてもう少し解像度を上げて言語化する必要があるのだけれど、少なくとも僕の世界のルールではそんな風になっている。
僕にとっての「特別」は議論
でも、そんな僕にとっても特別な関係性というのは存在している。
しょっちゅう会うわけでも、まして愛の言葉を交わす訳でもない。
ただそこには無垢の信頼と、積み重ねた深いディスカッションの蓄積がある。
価値観について、過去について、お互い議論が好きという共通点のみを根拠にぶつけあった蓄積だ。
僕はそうした言葉による交流を何よりも(愛の告白よりも親愛感情よりもセックスよりも)尊くエロティックなものだと思っている。
エロはなにも性的身体的接触・それに類する性描写だけに宿るものではない。
僕はその人がその人自身になるに至ったコンテクストと、それが言葉にされ輪郭を得る経緯にとても惹かれる。
性癖は人それぞれだと思うが、僕にとってのエロティックは議論だったというだけだ。
この前アセクシュアル・エロティックス(原題:Asexual Erotics: Intimate Readings of Compulsory Sexuality)という本を教えていただき、相反する概念を解説しようという試みにとても興味があるのだけれど、いかんせん全文英語なので躊躇している。
だれか翻訳してください。
話が逸れた。
そう、僕にとっての至上の交流はディスカッションであるという話。
僕は自分と同等以上の知性を持ち合わせている人たちのことを尊敬していて、彼らとの間に言葉にならない何らかの繋がりの糸があることをとても誇りに思っている。
でも、愛していない。
少なくとも世間一般に言われる恋愛的な意味では。
名前のつかない関係性
彼らを呼ぶ名前がないというのは、僕の「特別」を誰にも表明する機会がないということでもある。
誰もが夫や、妻や、恋人や、自分自身の「特別」を一切のためらいなく日常的に表明しているというのに?
だから僕は、言葉を探している。
今日僕の( )のAさんとご飯に行ってめっちゃ楽しくてさ~!
などと無邪気に話すための言葉を。
ポリアモリーの当事者の間では、パートナーのパートナー(本人とは恋愛関係にない)のことを親愛を込めて「メタモア」と呼ぶことがあるが、そんな感じの言葉をだ。
所有式の愛ではないからといって、どうして僕が彼らのことを誇っていけない筈があるだろう。