愛は補完か必需品か?

愛は生きていく上での必需品だろうか。

 

少なくとも、独身者は不完全でパートナーのある人が完全であるという論は乱暴だ。
結婚していたってうまくいかない家庭はいくらでもある。

アセクシュアルの当事者が、人間として未成熟なわけでもない。

 

もちろん性がなければ人間は殖えない。

けれど殖やしたい本能を抜いたら、そこに何か残るものはあるのだろうか。

愛の構成要素

イエール大学の心理学者ロバート・スタンバーグ博士によると、愛を構成する3つの要素は

  • 情熱
  • 親密さ
  • コミットメント

だという。

 

情熱はセクシュアル、親密さはロマンティックと言い換えてもいいだろう。(参考:アセクシュアルとポリアモリーは両立するのか?

コミットメントが少し分かりにくいのだが、関わり合い、相手を愛する決意、長期的に相手を相手を愛そうという決意、などとして説明されることが多い。

 

さらに博士は、この3つの強弱をもとに8つの分類を行う

  1. 完全愛:すべて強い
  2. 好愛:親密が強く、情熱とコミットメントが弱い
  3. 心酔愛:情熱が強く、親密とコミットメントが弱い
  4. 虚愛:コミットメントが強く、親密と情熱が弱い
  5. 情愛:親密と情熱が強い、コミットメントが弱い
  6. 友愛:親密とコミットメントが強く、情熱が弱い
  7. 愚愛:情熱とコミットメントが強い、親密が弱い
  8. 非愛:すべて弱い

 

言葉のチョイスにやや偏見を感じないでもないが、さておき。

興味深いのは性的興奮も含む情熱、好意としての親密さ、相互に影響しあう能動的な行動としてのコミットメントのいずれかが存在していなければ愛ではないとされている点だ。

 

3要素のどれを見ても、相手の所有、あるいは自らによる相手の変容に重きが置かれている。

愛は孤独の補完であるのか

愛が孤独を補完するという観点からも考えてみよう。

 

「愛の現象学的心理学」において山根一郎氏は、孤独を「心理的孤独」と「実存的孤独」とに分けている。

心理的孤独とは、関心となる対象(関係)の不在によるもの。

実存的孤独とは、被膜に覆われた生命体としての自己が、外界と同一化するには死ぬことでしか達成できないという本来的な孤独である。

 

孤独の解消を愛とするならば、心理的孤独を癒す愛は不完全で独善的に見えるし、統一を望む愛はなにやら美しいようには見えるが破滅的である。

このように考えていくと、愛の実存、あるいは独善的な欲望に依らない愛の純粋性など何にも証明しえないのではないだろうか。という気がしてくる。

愛のない僕から見える愛情

他の記事でも書き連ねてきたように、アセクシュアルの僕には愛がない。

誰も愛さないこと。誰にも愛されないことを、半ば子供の駄々のように決定事項として頑なに信じている。

 

そんな僕でも他者との関係性のなかに期待するものがある。

それは、孤独の解消の不可能性、そしてその不可能の境界線にどこまでも言語的に近づくこと。
ディスカッションにより、お互いが決して融合しえないバラバラの一人と一人であることを思い知ること。

それこそが僕にとっての至上の愛情とでも呼ぶべき感情である。

 

そしてそれは、マジョリティの世界で認識される「愛」とは大幅に異なっている。

「正しい」愛など存在しない

愛は独善である。

というのをとりあえずの結論としておくべきかもしれない。

 

人間が主観的な存在である以上は、純度100%混じりっ気のないピュアな愛などというものは存在しえない。

「キレイ」も「汚い」も、どこまでも自分勝手で主観的で曖昧な一人ひとりの感覚によるものだ。

ABOUTこの記事をかいた人

某ベンチャー企業で働くライター。リスロマンティック、アセクシュアルを自認。非血縁家族、曖昧なセクシュアリティに関心あり。あらゆる概念や思想を言語化したい。